2020/09/10 ビジネス

ラクダ大会【アリペイ創業物語第19回】

いまや世界で5億人が利用するモバイル決済システム「アリペイ」。運営するのは、世界最大の非上場企業「アント・フィナンシャル」。本連載は、中国キャッシュレス社会を築きあげたフィンテック企業の公的伝記『アント・フィナンシャルの成功法則 アリペイを生み出した巨大ユニコーン企業』(発行:中信出版日本)を73回に分けてお届けします。
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 難しいことをシンプルにするのがリーダーシップだ。このとき、彭蕾は会社の理想、使命と価値観に思い至った。アリババの創業スタッフであり、アリババグループの当時の最高人事責任者として、彭蕾は人材の重要性がわかっていた。人を集めなければ物事はうまくいかず、理想的な効果は得られない。
 
 アリババグループのパートナーである曽鳴(ツォン・ミン)は、かつて湖畔大学(ジャック・マーなどの大企業経営者たちによってつくられた経営者向け教育機関)での講義で、その企業が成長時期のどこに位置するかが異なれば、戦略も異なると語っている。

 曽鳴は、企業の戦略段階を「戦略試行期」と「戦略成立期」に分けた。彼の考えでは、「戦略試行期」は、ボトムアップ式のトライアルと思考法が許される。この時期の企業はある程度混乱してもいい。この時期の経験が総括されたあとにくるのが「戦略成立期」であり、この時期には、企業は「戦略の共通認識」を追求しなければならない。
 
 当時のアリペイの成長状態は、まさに「戦略試行期」から「戦略成立期」へ向かうところで、彭蕾が求めていたのは、できる限り速やかに思想を固め、共通認識をつくり上げることだった。彼女にとって、アリペイの最大の使命は、ネットショッピングのユーザー体験、信用評価システム、セキュリティシステムを究極のものにすることだった。それが、アリペイの存在意義と価値の最低ラインなのだ。
 
 彭蕾はその年の春節のあとに、業務に関する踏み込んだ議論を行うことを決めた。これがアリペイ史上有名な「ラクダ大会」だ。アリペイとアント・フィナンシャルにとって、この会議の重要性はどんなに強調してもしすぎることはない。もし、2010年にジャック・マーが参加したアリペイ社の年次大会がすべての社員に問題の所在を意識させたのなら、それに続いたラクダ大会は、社員を悩みから解放するものであり、共通認識をつくり上げて初心に帰すものだった。
 
 ラクダ大会は杭州の莫乾山路2349号の良渚大酒店で、アリペイの職位がP8(8級)以上の中核社員がすべて参加し、まるまる4日間開かれた。昼は業務に関する交流をし、夜は食事をし、気持ちを語り合った。
 
 ラクダ大会以前は、多くのアリペイ社員は混乱して行き詰まっていた。その頃、アリババのB2B事業は香港で上場しており、タオバオの業務も日々発展していた。一方で、アリペイのストレスは非常に高まっていた。一部の社員は、アリババグループはアリペイをあまり重視していないと考えており、ジャック・マーの厳しい批判は社員への強いプレッシャーとなった。誰の言うことを聞けばよいかわからないと感じる者もいたし、不満でいっぱいと言う者もいた。気持ちが腐り始めている者もいた。当時、多くの人は仕事をきちんとしたいと考えていたが、組織環境が仕事の進捗を妨げていると感じていた。
 
 胡宸宇(フー・チェンユー)は2008年5月21日アリペイに入り、4年間働いた。彼女は、現在はすでに会社を離れて起業しているが、彼女がアリババでのさまざまなことを思い出すとき、もっとも印象深いのはラクダ大会の1日目の夕食だと言う。
 
 その日の夜、胡宸宇が席に着くと、すべての人の前に赤ワインが1本ずつ置いてあった。酒に弱かった彼女は目を丸くした。「まさかこれを飲めって言うの?」
 
 その後の状況は彼女の想像通りだった。
 
 彭蕾は率先してほぼすべての人と酒を酌み交わした。
 
 中国では、酒席はもっとも短時間で人と人の距離を縮める場だ。中国人は酒を飲むことで相互理解を進める習慣があり、アルコールの作用で、人々は平常時の警戒心を解き放ち、より率直な形でコミュニケーションがとれるようになる。
 
 彭蕾はアリペイに来たばかりで、短時間でチームについてよく知る必要があったため、宴席はちょうどいいコミュニケーションの場となった。この雰囲気のもと、人々は警戒を解き、心の扉を開いた。
 
 宴もたけなわになると、皆が互いに酒をつぎ合うようになった。酒をやりとりして飲むほどに話も進んだ。乾杯の音や談笑する声、泣きながら訴える声などが混在して、みんなが興奮していた。テーブルのかたわらには床に倒れている人もいた。彭蕾自身もたくさん飲んだので、床に座って皆と話し続けていた。アルコールは気持ちを解き放ち、多くの人が話しているうちに泣き出した。ベテラン社員たちは、アリペイの過去、経験してきた苦労などについて話し、なぜアリペイはこうなったのかについても語っていた。
 
 葛勇荻もアリペイ年次大会以来、ジャック・マーの批判で気持ちが沈んだままだった。しかし、このときはアルコールが彼の心の水門を開き、すべての溜まっていた気持ちがダムから水が勢いよく流れ出すように噴出した。
 
 トイレに立ったとき、彼は携帯電話を取り出し、最初に彼にアリペイに入るよう勧めたアリペイ初代総裁の陸兆禧に電話をした。「陸さん、私は、最初、あなたがいたからこの会社に来ました。しかし、今はこんなふうになってしまいました……」。葛勇荻は泣きながら話した。頭の中にはアリペイ創業時の苦難が次々に浮かんできた。
 
 電話の向こうで陸兆禧は静かに聞いて、ときおり彼を慰め励ました。このとき、陸兆禧には、葛勇荻が必要としているのは彼の話を聞ける人だとわかっていた。
 
 葛勇荻は自分がどうやって席に戻ったのか覚えておらず、後日写真を見て、二人の同僚が彼が帰るのを助けてくれたことを知った。
 
 胡宸宇は、その夜は、業務について議論していた時間はそんなに長くなく、より多くの時間、同僚たちは互いの気持ちを語り合っていたことを覚えている。普段同僚と仕事中にいつも接しているけれど、互いにあまり理解し合っていなかったと、そのとき突然気づいた。この会議のあと彼女は本当に周囲の多くの同僚を理解するようになった。
 
 彭蕾は立ち上がれないほど飲み、胡宸宇と人事担当の同僚が彭蕾を助けてホテルの部屋に戻った。この部屋で彭蕾は何度も吐いた。胡宸宇たちは、酔いを覚ますために彼女に水を与えた。
 
 ラクダ大会の前、彭蕾はアリペイのサービス部を再編成したばかりだった。商品部の二人の責任者うちの一人はタオバオに戻り一人は会社を辞めた。彼らの送別会でも彭蕾はたくさん酒を飲んだ。
 
 翌日朝9時、彭蕾は時間どおりにラクダ大会の会場に現れた。気分は悪そうだったが気を張っている様子だった。

次回は、「第20回:会場から聞こえて来た涙声


アント・フィナンシャルの成功法則
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アント・フィナンシャルの成功法則 アリペイを生み出した巨大ユニコーン企業
著者:由曦
中国で10万部のベストセラー!中国で生まれ日本や世界で5億人が利用するモバイル決済システム「アリペイ」。運営するのは、世界最大の非上場企業「アント・フィナンシャル」である。本書は、同社のサービス誕生からイノベーションを繰り返して成長した過程を、企業の人・できごとにスポットを当てながら克明に描く創業物語。世界の金融業界から注目を集めるフィンテック(決済技術)最先端企業を解き明かす。

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