2020/09/14 ビジネス

「正しく事を行う」と「正しい事を行う」の違い【アリペイ創業物語第21回】

いまや世界で5億人が利用するモバイル決済システム「アリペイ」。運営するのは、世界最大の非上場企業「アント・フィナンシャル」。本連載は、中国キャッシュレス社会を築きあげたフィンテック企業の公的伝記『アント・フィナンシャルの成功法則 アリペイを生み出した巨大ユニコーン企業』(発行:中信出版日本)を73回に分けてお届けします。
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 今日、すでにアリババグループのパートナーとなっている老苗は、新入社員の育成に関与し、新社員に顧客のほうを向いて考えるという価値観を教え続けている。
 
 仕事においても、彼は顧客の立場に立ってサービスを設計するようにチームに要求する。老苗は、ユーザー体験はサービスチームと技術チームのみが関わるものではなく、すべてのアント・フィナンシャルの社員が「顧客のほうを向いて考える」という思考を備えていなければならないと考えていた。彼は、それがアリペイの本当のイノベーションの源泉であり、会社とチームの潜在意識にまでこの考えをたたき込まなければ、利益を優先したいという誘惑に負けて、ユーザーが真に求めるイノベーションを生み出すことはできないと考えている。
 
 現在では、アント・フィナンシャルはいかなる戦略決定のときも、第一に、なすべき事柄とユーザーに与える価値を関連づけようとする。まず、ユーザーに与える価値を上げられるかどうか、次にその価値をどのくらい上げられるか。アント・フィナンシャルのいかなるイノベーションおよび新業務も、基本的にはこの戦略決定のプロセスを守っている。

 たとえば今日、アント・フィナンシャル内部で「正しく事を行う」と「正しい事を行う」という言葉を聞く。わずかな言葉の違いだが、意味はまったく異なる。社員がKPIのみから事を始めると、「正しく事を行う」となる。しかし、ユーザーへのサービス、チーム内部の整合あるいは業務のイノベーションから始まると、「正しい事を行う」となる。この両者はどちらからも目標に到達することができるが、「正しい事を行う」ことの影響と結果は、「正しく事を行う」場合よりはるかに大きい。
 
 アント・フィナンシャル保険事業グループの総裁である尹銘(イン・ミン)は、アント・フィナンシャルに入る前は、ネット業務とは無関係の保険会社の副総裁だった。旧来の金融機関とインターネット企業を経験した彼は、「正しく事を行う」と「正しい事を行う」ことの違いに深く感動を覚えた。
 
 旧来型の保険会社では、企業経営の目標は保険料収入の多寡だった。上司が彼に、あるいは彼が部下に指標を示す場合、すべて保険料収入を基準にしていた。しかし、この奨励システムでは、顧客に提供する価値が減殺されてしまう。たとえば、1000元の自動車保険で解決できるような状況でも、保険会社は顧客に、より保障の厚い保険を勧める。そのほうが保険料収入が増えるからだ。
 
 アント・フィナンシャルがもっとも重視しているのは、顧客にとっての価値である。アント・フィナンシャルの業務のイノベーションにおいては、「ユーザーにとっての価値」が最上位に置かれている。尹銘は部下に対し、業務規模のノルマを決めたことがない。保険チームは彼に率いられ、ユーザーにとっての価値から始まり、多くのビッグデータに基づいた「消費保険」(消費行動に関する保険。購入品に関する傷害保険のほか、購入品を返品する際にその送料などを保障するなど対象は多岐にわたる)業務を扱うようになり、いい結果が出ている。「イノベーションを通してユーザーにとってのアリペイの価値向上を追求していたが、意外にも既存業務のなかにユーザーの欲するものがあるのではないか」と尹銘は思った。
 
 ラクダ大会において、彭蕾は何度も「アリペイは顧客にとっての価値を重視する」と繰り返した。

 「初心に帰ろう!われわれはKPIを忘れてしまってもいいし、戦略を忘れてしまってもいい。しかし、決して顧客にとっての価値を忘れてはならない」
 
 これは、彭蕾がラクダ大会でもっとも多く言った言葉だ。
 
 ラクダ大会のあと、すべての社員が鬱積(うっせき)した感情を解き放ち、未来に対する不安を解消し、アリペイはあらためて顧客にとっての価値を注視し始めた。また、ほぼすべての社員が、中心に置くべきものはユーザー体験だと考えるようになっていた。

 それからは、ユーザー体験はすべてのアント・フィナンシャル社員の頭上から下げられた剣のように、意識から離れない存在となった。今日のアント・フィナンシャルのすべてのサービスの設計はユーザー体験に重きを置いている。会社はどんなイノベーションや実験的変革を行っても、サービスのユーザー体験を犠牲にすることはできない。
 
 彭蕾の指揮のもと、ラクダ大会という、本来はアリペイの将来の理想、使命および大きなビジョンを議論することを目的にした会議は、すべての社員にとって「初心回帰の旅」となった。それは、アリペイのサービス形態のモデルチェンジを進めただけでなく、ユーザー体験の重視も促進させた。それゆえに、アリペイの今後の発展のための路線と方針を確立したこの会議は、アント・フィナンシャル発展史上の重大な岐路となった。
 
 彭蕾はユーザー体験という1本の芯をつくった。そのため、彼女のことをアリペイ最大の「顧客検査官」だと言う人もいた。彭蕾は、自分がアリペイにいる最大の価値はチームの業務が最低ラインから外れていないかどうかを調べることであり、チームがユーザーに高い価値と良質なユーザー体験を提供し続けることを保証することだと考えていた。
 
 ユーザー体験を向上させるのは空論ではない。アリペイにとって、この目標を実行する際にもっとも重要なのは決済の成功率を上げることだった。ラクダ大会以降、アリペイの評価指標は、決済業務規模と営業収入から、決済成功率とアクティブユーザー数に変わった。
 
 その後、彭蕾は月に一度、各業務ラインと会議を行うようにした。当初、多くの社員は彭蕾に対して完全に信頼を置くことができず、ボスに対して仕事の報告をするような気持ちになっていた。しかし数カ月経つと皆彭蕾に心服していた。多くの人は彭蕾が会うたびにこう言っていたことを覚えている。「馬鹿な質問かもしれないけれど、ちょっと聞いて」。しかし、聞き終わると皆、彭蕾の質問はいつも鋭く核心を突いていると感じた。 

 多くの場合、「ユーザーにとっての価値」を上げることが最良の戦略であるため、彭蕾は旧来の思考パターンにとらわれず、サービスがユーザーにもたらす価値についてのみ考え、複雑な状況のもとでも問題のポイントをすぐにつかんだ。
 
 老苗はラクダ大会を心に刻んでおくために、ラクダのおもちゃを一つ買ってきて忘れないようにしている。
 
 その後、「顧客にとっての価値を最上位に置く」は、アント・フィナンシャルの変わらぬルールになった。

次回は、「第22回:決済成功率を上げる


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アント・フィナンシャルの成功法則 アリペイを生み出した巨大ユニコーン企業
著者:由曦
中国で10万部のベストセラー!中国で生まれ日本や世界で5億人が利用するモバイル決済システム「アリペイ」。運営するのは、世界最大の非上場企業「アント・フィナンシャル」である。本書は、同社のサービス誕生からイノベーションを繰り返して成長した過程を、企業の人・できごとにスポットを当てながら克明に描く創業物語。世界の金融業界から注目を集めるフィンテック(決済技術)最先端企業を解き明かす。

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