2020/11/26 ビジネス

150年前に新しい国家像を描いた2人の思想家

写真:Pixabay

中国の著者によって書かれた日本史の本——とても奇妙な作品のように思えますが、実は意外と興味深いものです。我々が知っている日本の歴史を通して、当時中国との比較、現代中国への暗喩、日本に対する正直な気持ちなどが随所に散りばめられています。この記事では、12月5日販売開始の新刊『明治維新の教え —中国はなぜ近代日本に学ぶのか』(中信出版日本)を一部抜粋して面白くなる「読み方」を紹介します。



佐久間象山と魏源に共通する先見の明



幕末に「西洋に学ぶ必要性」を日本で最初に説いた学者として佐久間象山は広く知られています。中国でも同時期に西洋に強い関心を持った人物がいます。彼の名は魏源。

魏源の記した軍事書『聖武記』を読んだ佐久間象山は喜びにも等しい驚きの声をあげたといいます。

「ああ、私と魏源は、それぞれ別の国に生まれ、互いに名前も知らないのに、時代を感じて書籍を執筆したのが同じ年齢で、その観点、図らずも共通する点があること、実に不思議だ!まさに海外の同志というべきだ!(現代語訳)」

もちろん魏源も「西洋に学ぶ必要性」を中国で最初に説いた人物なのです。
『明治維新の教え』では、この共通点の多い2人を対比させながら彼らの功績を紹介しています。

松代藩(現在の長野県)に生まれ、儒学(朱子学)で秀才との名声を受けていた佐久間象山が、「西洋」と初めて接点を持ったのは蘭学への入門でした。様々な西洋の学問に触れるにつれ、西洋への興味は強くなるばかり。江戸に象山書院を開くと、同じく西洋に関心を持つ様々な人物が訪れ、勉学や思想、ビジネスなどについて語り合いました。この時の門下生になった人には、勝海舟、坂本龍馬、吉田松陰、高杉晋作など幕末史を動かす大物もいたそうです。

さらに大きな転機となるのが、アヘン戦争でした。

<象山30歳のとき、「清王朝が危機に陥った」という知らせが彼を驚かせた。これまでずっと繁栄した文化と強大な国力を持っていた清が、アヘン戦争でそれほどひどい目に遭うとはまったく想像できなかった。

 アヘン戦争が勃発したとき、象山は限られたルートを通じて戦況の情報を入手し、情勢の変化を注意深く見守っていた。彼から見れば「英夷は清国に寇し、声勢相逮べり」、非常に厳しい情勢だった。彼は戦争勃発の理由について「各国が自国の利ばかり考え、世界の利を得たいという邪まな欲が興ったため」と考えた。

 清朝の失敗の主な原因は、「自国の善さしか知らず、外国を俗物とし夷狄と蔑さげすみ、国利・兵力・火技・航海において自国を遥かに凌ぐその実力を知らずにいたこと」にある。象山は中国の境遇に同情し、イギリスの侵略行為を非難した。しかし、イギリスには「船上に備えた大砲」があったからこそ「意のままに」侵攻できたという点を冷静に見ていた>

アヘン戦争の結果を受け、西洋の脅威は時を置かず日本にも押し寄せるだろうと推測、幕府に海防強化の意見書を提出しました。この『海防八策』こそが、4ヶ月前中国で出版された魏源の『聖武記』と、偶然同じ提言内容だったとしているのです。
さらにこの後に魏源が執筆した『海国図志』の「夷の術を以て夷を制す(西洋の技術を導入し、西洋に対抗すべき)」という主張にも大いに賛同しています。

また西洋砲術などの軍事理論を伝授するだけでなく、外国製と同品質のガラス製造やジャガイモの栽培、種痘など防疫にも熱心に取り組んだ象山を『明治維新の教え』では以下のように評しています。

<多くの人が西洋文化を「カルト」や「奇をてらう中身の乏しい物」と見ている時代に、象山は欧米諸国における近代文明の発展状態を深く正しく認識していた。彼はもはや伝統的な儒学者ではなく、「新しい日本人」となったのである>

ペリー来航後の象山は、保守的な幕府と無謀な攘夷勢力に翻弄されながら、日本の進むべき道を示し続けていたように思えます。

<日本が開国を強要され、民族危機が高まるにつれ、幕末における各藩の藩主や武士、知識人の思想は活発化する。
特に偏狭な民族主義の「華夷思想」が流行、内外の別を強く主張し、「日本は世界各国より優れている」と宣揚し、それが攘夷運動へと発展していく。このような保守的な思想は、武士道精神の発揚、外国排除の堅持、国体の神聖さと尊厳の維持を主張するものである。
象山はこの偏狭な民族主義に反対する。彼は日本の武士道では堅船利砲に敵うはずがなく、国力増強のためならば、いかなる政策も調整すべきで、そこには開国も含まれていた。
西洋各国の状況を研究した彼は、日本が富国強兵し、西洋の資本主義強国に追いつくには、開国し儒家の学説を捨て、「幡然とこれまでの苟且(その場しのぎの方式)を捨て」、西洋に学び、「諸学科を発展させ、遊民を禁じ、処罰を省き、機械学を興し、工場を開設し、船を造り、航海法を復興させ……本国の実力はいつか英、仏、米各国を上回る」と述べた>

さらに西洋からの技術導入のために、弟子の吉田松陰にヨーロッパに密航させる計画を実行させたが、
失敗に終わり象山は首謀者として投獄(のちに謹慎)されています。
また偶然同年、魏源も一向に提言に聞く耳を持たない清朝政府への失望から出家。
自らを世間から隔離し書籍編集に専念し始めたそうです。

8年間の刑罰から解放された象山は、以前にも増して国内が混乱する中、朝廷と幕府を団結させ日本が一丸となって改革を行う「公武合体」の主張を始めます。さらに西洋人とは、文明に敬意を払い礼節を持って接するべきとしました。

彼は、外国を軽視するばかりで西洋諸国の学術研鑚や強盛な国力、精妙な火技、航海への精通を知らずにいることを批判した「英国と戦争となれば大敗を期し、世界に恥を晒し、古代の聖賢の面目をつぶすことになる」。象山の批判は、その時代の日本の悪弊を鋭く突いていた。狂信的な民族主義推進の下、一部の武士は盲目的に強硬な手段で外国人を排除し、各地で外国人殺傷事件が相次いだ>

ついに1864年夏、攘夷派の刃は象山にも向けられます。
馬国川氏が記した<傑出した思想家は、狂気の時代の罪なき犠牲者となってしまった>は彼を惜しむ正直な気持ちでしょう。
一方の魏源は、この7年前<地を掃い香を焚きて、心も灰も冷たくなった>と描写されるように、自身の学びが報われない無念のうちに最期を迎えたそうです。

魏源の思想が、清国で形になることはなく、新時代の幕開けは1911年の辛亥革命まで待つことになります。
しかし偶然にも同じ思想を持つ佐久間象山により日本の多くの若者に影響を与え、1968年からの明治の時代を切り開く原動力となりました。
果たして、今の日中両国は魏源と象山からはどのように見えるのでしょうか?彼らの描いた理想と今の両国のあり方を比べると、日中関係を考える新たな視点となるのではないかと思います。


明治維新カバー
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