2020/11/30 ビジネス

中国から見た徳川慶喜の引き際

写真:Pixabay

中国の著者によって書かれた日本史の本——とても奇妙な作品のように思えますが、実は意外と興味深いものです。我々が知っている日本の歴史を通して、当時中国との比較、現代中国への暗喩、日本に対する正直な気持ちなどが随所に散りばめられています。この記事では、12月5日販売開始の新刊『明治維新の教え —中国はなぜ近代日本に学ぶのか』(中信出版日本)を一部抜粋して面白くなる「読み方」を紹介します。



政治家がしがみつく権力の魔力



ニュースを見ていると政治家が不祥事を起こした場合、すんなりと辞職する人は稀だと思います。また、なかなか引退しない議員は多選だと批判されたり、引退したと思ったら家族に世襲させて影で影響力は保持したりと、多くの政治家は一度手に入れた権力を自らは手放さないものです。

極端な例になると、歴史上の独裁者たちは、引退後にまた権力の座に戻ってきたり、自身に有利なように法律を改正したり、酷いときは、政敵を残酷に排除したり、一切の批判を禁じる恐怖政治を始めたりと、自らの権力を絶対的なものにするため手段を選びませんでした。

しかし『明治維新の教え』の著者・馬国川氏は国と国民を守るため自ら強大な権力を手放した世界でも稀な例として、一人の日本人を挙げています。

江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜です。

日本では「江戸時代を終わらせた」「戦わずして逃げた」などの理由で評価が高いとは言えない人物ですが、中国人ジャーナリスト馬国川氏の目には、「自ら権力を手放す」という世界でも例を見ない偉業を成し遂げた政治家だと同書には描かれています。

<「国家の転換」という重要な局面において、政治家は重要な役割を担い、しばしば難しい選択を迫られる。もっとも難しいのは、彼ら自身の進退である。なぜなら、それは個人的な栄辱だけでなく、歴史の進展にも影響を及ぼすからである。徳川幕府最後の将軍・慶喜がまさにそうだった>

1866年、29歳で征夷大将軍に就任すると、西洋に倣った改革を実施。出自に関係なく有能な者を要職に登用、幕臣への貨幣税の実施、西洋式軍隊の編成、欧米諸国外交使節との会談実施など、すぐにできる部分は実現させたほか、先々の構想は留学帰りの学者に立案させ、三権分立や二院制の国民議会の確立を目指していた。

これらは明治時代に実行される様々な改革と類似するものでした。
実際、長州藩の実力者であり、明治の元勲ともなる桂小五郎(後の木戸孝允)は「慶喜の頭脳は侮れない。徳川家康の再来を見るようだ」と強く警戒。
また「アメーバ経営」で知られる稲盛和夫氏も「慶喜の実施した体制改革は、今見ても新しく、徹底されたものである」と評しているとのことです。

とは言え、いくら大胆かつ的確な改革を行ったところで、もはや手の施しようのない重病人のような幕府を復活させることはできず、一方倒幕派の急先鋒だった長州藩は国内随一の軍事力を誇る薩摩藩を味方に引き入れることに成功。満を辞してまさに倒幕の狼煙をあげようとしているとき、慶喜は薩長同盟の水面下の動きを察知します。

<倒幕派は暗に倒幕を画策しつつ、「幕府が政権を朝廷に返還する」という、幕府にとっては酷な「大政奉還」を求めた。意外なことに、徳川慶喜はすぐに同意した。彼は内戦の勃発を望んでいなかったからである>

しかしこれに続いて慶喜に下された「辞官納地」の命令は、そのまま受け入れることができず、天皇に猶予の直訴をするため、兵とともに京都へ入ろうとしたところ、倒幕派の軍勢に行く手を阻まれ、図らずも武力衝突に至ります。

旧幕府軍は兵の数では圧倒していたが、薩長を中心とした軍勢の最新装備と士気、そして「錦の御旗」の前に押される一方。戦果の拡大を望まない慶喜は大坂城に退却、さらに夜闇に紛れ海路で江戸へ引き上げます。以後は、一貫して上野の寛永寺にて自ら謹慎。フランスから軍事支援の申し出があっても一切動かず、新政府に恭順の意思が揺るぎないことを示したそうです。
この理由として、『明治維新の教え』では以下の見解を示しています。

<慶喜が個人的権力を守るため抵抗するのであれば、新政府軍と一戦交える力は持っている。江戸を失っても、東北に退去すれば、割拠もできる。だが、それでは、江戸の町が塗炭の苦しみをなめ、国が内戦に巻き込まれてしまう>

謹慎を続ける元将軍の命令はただ勝海舟への新政府に対する降伏と江戸総攻撃中止の交渉のみ。「江戸無血開城」が実現したことにより明治新政府は日本最大の「都市力」を保全したまま、新しい新時代をスタートさせることができたのです。

<自ら権力を手放して、潔く隠居を決めた「紳士」を、弱虫だと貶めることはできない。1868年、もし慶喜が新政府軍との決戦を決めていたならば、日本の歴史は書き換えられていたに違いない。少なくとも明治維新はあれほど順調には進まなかっただろう。日本は長期的な内戦に陥り、敗北国家となっていたかもしれない。
慶喜が個人的権力のために戦わず、勇敢に一線を退いたことは、国家の進歩に大きく貢献した。彼の行為は英雄と呼ぶにふさわしいものである。
権力は、一度握ると手放せなくなる。歴史の舞台に立つ政治家には勇気が必要だが、それ以上に度胸を試されるのは、舞台から下りるときである。特に19世紀半ば、徳川慶喜が自らその舞台から下りた英断には感心させられる。
当時、東方国家には、指導者と平和裏に交替できる民主制度がなかったため、政治家は政界で老死するか、他から追い出されるかであり、自らその権力を放棄した者はいなかった。100年以上が過ぎても、政治家というのは、死ぬまで権力を手放さない(最終的には、暴君や国賊に成り下がってしまうことが多い)。
その意味で、勇退した慶喜は、日本の歴史における功労者であり、世界の政治文明史における偉人であると言えよう>

日本では負の評価が多い慶喜ですが、日本国外の人からこのよう客観的に評せられることで、「歴史観」の多面性を実感せざるを得ないのではないかと思います。もちろん、現代の政治家を判断する上で「歴史的な視点」というものも忘れてはならないということも改めて喚起されるのです。


明治維新カバー
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