2021/09/09 中国旅行

中国の歴史観光スポット ~春秋時代に思いを馳せる山東省の名遺跡~

広大な土地を持つ中国。現在、世界遺産登録数が世界2位の世界遺産大国です。

筆者も中国滞在中、観光や出張などで中国各地を訪れる機会がありました。その中には著名な場所もありますが、日本ではあまり知られていないような“穴場”といえる観光地にも立ち寄ってきました。

【写真3点】後李春秋殉車馬坑の出土した戦車と馬

中国の観光地の中から、筆者にとって印象深いスポットを紹介していきます。今回は、山東省の小さな街の遺跡を見てみましょう。

出張で出会った山東省の小さな街

今から15年ほど前、上海で広告・メディア関係の仕事についていた私は、仕事で山東省の各地を旅してまわったことがありました。

山東省の都市といえば青島市があり、青島市で生まれた「青島ビール」は中国で広く親しまれている国民的なビール。旧市街にはドイツの租界時代の街並みをのこし、清朝末期~民国時代の政治家にして教育者であった康有為をして「老後はここに住みたい」と言わしめた街です。

青島も非常に魅力的なのですが、今回ご紹介するのは、青島から日本でいう県庁所在地の省会・済南市へと向かう高速道路の途中にあるスポットです。

街の名前は、山東省・淄博(しはく)市。おそらく日本でこの名前を知っている人は、非常に少ないのではないでしょうか。中国でも山東省以外で知っている人も限られるように思います。

しかし、その街が私の心をグッと引き留めたのです。理由は、郊外にある遺跡。名前を「後李春秋殉車馬坑」といい、「古車博物館」に展示されています。春秋時代(紀元前770年~紀元前403年ごろ)のものと思われるお墓の服装品が、ほぼ完全な形で出土したといわれれる遺跡です。しかも土器などではなく、戦車が10台分そしてそれにつなぐ馬が32頭分が、ほぼ完全な形で出土したのです。


「馬車」が貴族のステイタスだった春秋時代

「戦車が出土した」というだけでは、あまりピンとこないと思います。なので、まず「戦車」から説明したいと思います。

はるか昔の人は、馬に「乗って」移動するというイメージが強くあります。馬上で槍や薙刀のような大刀を構えて一騎打ちをするという戦さのシーンを思い起こす人もいるでしょう。

しかし、中国で人が馬の背に乗るようになったのは、意外に後のこと。戦国時代に入ると若干普及を見せますが、それも一部での話で、当時は馬の引く車すなわち馬車に乗るのが普通だったといわれています。

中国の戦さで、花形となったのはこうした馬車で、それが一般的に「戦車」と呼ばれます。1台の馬車には2頭から4頭の馬がつながれ、御者1人と戦士2人の合計3人が乗り込みます。

その1台を「乗(じょう)」と呼び、春秋時代などはその戦車の保有台数=その国の国力と考えられていました。「千乗の国」とは、戦車1000台を保有できる国力を持った国という意味で、大国の表現として使われました。

春秋時代の戦さは、儀礼的な色合いが強く厳しいルールにのっとったものであったようです。なぜならば戦車に乗って戦さに出かけるのはその国の貴族。それゆえに、貴族としてのマナーが優先されたわけです。

戦車同士の突撃にもその闘い方にもルールがあり、馬車は左方向に旋回しお互い馬車の右側がすれ違うように移動。そのすれ違う瞬間に、お互いの馬車の右側に立つ戦士が武器を使って相手と戦う、いわば一騎打ちが盛んに行われたといわれます。

もちろん勝った側は勇者としての称賛を受けます。貴族の本懐といったところでしょう。「後李春秋殉車馬坑」で出土したのは、そんな春秋時代の戦さで使われた戦車です。

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